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アラフォーからの挑戦状。

泣くなよ。

「さよならなんだ」と僕は言った。
「嘘ですよね?」と彼は言った。
会社を辞めることを伝えたとき、彼の動きは止まった。

こいつは会社の後輩で、僕が初めて指導した相手だ。
指導したと言っても僕の立場が「指導員」という名目だったというだけで、技術的なことは何も教えていない。いくつも歳の離れた後輩だが、彼はとても優秀で、僕の方が教わることばかりだった。今は立派に30代。働き盛りのアラサーだ。

飲みに行きましょうと彼が言った。
もちろん。望むところだよ。断る理由は無い。積もる話もしようじゃないか。

彼がチョイスしたお店は会社最寄駅の肉バル。そういや、初めて二人で飯を食ったのも肉料理の店だったね。相変わらずだな。彼らしいお店選びに頬が緩む。

「本当に行っちゃうんですね」
肉をつつきながら彼がつぶやく。
行っちゃうんですよ。この会社は好きだったけどね。それでも僕は行ってみたいんだ。

「いつ日本に戻ってくるんですか」
全然決めてないよ。まずはデンマークに行くけど、先の予定は考えていない。何か楽しいことができると良いな。

「先輩には、僕が社会人になりたての不安なときから、色々なことを教えてもらいました」
またまた。そう言ってくれるのは君の優しさってやつだぜ。ありがとさん。

僕は、仕事ができる方ではなかった。技術者としての能力は高くない。会社のために生み出したものもほとんどない。目の前の仕事に取り組むだけで精一杯だった。
一方、彼はとても頭が良くて、僕よりずっとたくさんの知識があるし、アイデアだってどんどん出てくる。業務への取り組みも一所懸命で、安心して仕事を任せられた。色んなところで助けてもらった。そんな彼に僕が教えれたことなんて、数える程もないはずだ。

「そんなことないです。あんなこともあったし、こんなこともあった…」
あぁ、そんなこともあったね。懐かしいな。大変だけど、楽しかったな。

楽しい時間は更けていく。明日も仕事、さあ、もう帰る時間だ。

駅への帰り道、ただの駅前の商店街。「この何気ない景色も懐かしく思うことになるのかな」と言った。飲み屋があって、コンビニがあって、特別なものは何もない。

「それは…」横を歩く後輩の声が震えた。足元に伸びる彼の影が、目元を拭っているように見えた。

不思議だな。
頼りにならない先輩だったのに。僕の方が助けてもらってばかりだったのに。

泣くなよ。
君には良い仲間がいっぱいいるんだから。

泣くなよ。
次の出会いも待ってるんだぜ。

泣くなよ。
さよならとありがとうが、言いにくくなっちまうよ。

ただの駅前の商店街。特別なものは何もない。
この何気ない景色をきっと、忘れることはできないな。

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