落ちたの?でも、おめでとう!
1週間ほど前のこと、僕は日本語パートナーズから落選の通知を受け取った。期待が大きかった分だけ落ち込んだ。楽しみにしていた遠足が台風で流れてしまったような気分だった。
そんな夜、シェアハウスでチリ人の友人と顔を合わせた。彼はいつものように「調子どう?」と声をかけてくる。けど、いつものように返すことはできなかった。ごめん、今はそんな気分じゃないんだ。
「例のボランティア、選考に落ちてしまったよ」と、精一杯の作り笑いで僕は言った。チリ人は少しショックを受けた様子だった。
「なんで落ちたの?」
「なんで落ちたのか、理由を聞いてないからわからないけど」と、笑いながら僕は答えた。けど、きっと理由は知っている。
面接までいったんだ。そこで落とされたのだから、問題は書類や経歴じゃないんだろう。僕を見て、求めているのはこの人じゃないと判断されたということじゃないか。
「そうかー」とチリ人は言った。「で、次はまた受けるの?」
「ううん、もう諦める。3回応募しても駄目だったから。
ボランティアはやめて、デンマークの学校に行こうと思っている」
「え、学校?」
僕は計画しているフォルケホイスコーレについて説明した。誰でも入れる学校だということ、共同生活をベースにして成り立っていること、何かを教わるのではなく、そこでの生活を通して学ぶのだということ。
チリ人は、いいねと相づちを打ちながら、急な話の展開に目を輝かせながら聞いている。
「おめでとう!」
彼は、突如僕に向けてこう言った。
そして続けた。「目指すところが決まっているのなら、次に進むならそれはとても良いことでしょ。面接は落ちたけど、でも、おめでとう!」
おめでとう、って。
落選通知を受け取った日にそんなことを言われるとは思わなかった。そう言われたら、「人の気も知らずに」と感じるときもあるかもしれない。
でも彼の言い方は、全然心を波立たせるものではなかった。
そうだね。
僕が挑戦していたところからは断られたけど、でも、どこにも行けないわけじゃないんだ。別の目的地に向かって歩き出せるのなら、それはまた素晴らしいことだって、そう思っても良いのかもね。
とても前向きな慰め方だよ。この言葉が文化の違いから来るものなのか個人の個性から来るものなのかはわからないけど、自分とは違う考え方に触れる瞬間が僕は好きだ。
落ちたけども、おめでとう。
ありがとう。その一言で救われる。
歳はアラフォー、性別は男。風薫る季節、北の大地で生を受ける。家庭なし、収入なし、計画性なし。まだ知らぬ場所での生活にあこがれて旅立ってしまったアラフォーマン。
2019年5月に日本を離れ、デンマーク、リトアニア、ジョージアなどで学校に通ったりしながら過ごす。2024年9月現在、日本語を教えるボランティアとしてベトナムに滞在中。
好きなもの:公園、散歩、ジャグリング
苦手なこと:料理、おしゃれ、あと泳げません